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日々大学院で学んだこと、考えたことを更新

受動喫煙防止法について論点整理②:サイエンス × 価値観 ≒ 政治でつくるザッカーバーグ的理想世界

なんだか壮大なタイトルになりました(笑)

前回は「受動喫煙による健康影響・死亡数」なるものがどうやって計算されていてるか、どの程度信用できる数字なのかについて整理しました。この辺りは、私の専門性が少しだけ活きてくる部分であり、(少なくとも私が定義する範囲で)”科学的”な議論であったと思います。

今回は「じゃあ受動喫煙が健康に対して多かれ少なかれ影響があるとして、多くの人の”自由”を犠牲にコストをかけて対策するほどのことなのか」「受動喫煙対策をするとして、室内全面禁煙が本当に妥当なのか。やりすぎではないか」といった部分について私の個人的な意見を述べたいと思います。なぜ個人的な意見と強調したかというと、後でも述べますがこれらのトピックは科学”だけ”でものを言うのが難しい領域であり、必ず一定程度の主観的な価値判断が入ると私は考えていますので、そのように読んでいただけると幸いです。すなわち、こいつは科学者の端くれのくせに政治的なことを言って偏っている!という批判はまったく論外ということです。みんな偏っているのですから。

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前回記事のまとめ

まず最初に、受動喫煙の健康影響に関する疫学研究について再度私の考えをまとめます。重要なので納得できない人は前回の記事を読んでもらえるといいと思います。

1.疫学的な手法を使って”完璧”な因果推論を行うことは不可能であり、すべての研究結果は不完全。あくまでどの程度間違っている(バイアスがある)結果になっているかが問題。

2.受動喫煙が疾病や死亡のリスクに与える影響に関する疫学研究は、指摘されているように不完全なデザインや統計解析に基づくものであり、”正確な”因果関係を示すものではない。例えばメタアナリシスから得られた受動喫煙と肺がんの関係はリスク比1.22。”真の”リスク比はこれより小さい可能性があり、このメタアナリシスの結果は”不正確”といえる。このような誤った数字を用いて算出した「受動喫煙による死亡15000人」もおそらく”正確”な推定値ではない。一部の誠実な研究者が怒るのも無理ない。

3. しかし、1.22という観測されたリスク比がバイアスによって完全に説明されてしまうためには相当強力なバイアスが必要になり、あまりあり得そうなシナリオとは言えない。リスク比1.22ではないにしても、多かれ少なかれ受動喫煙が肺がんに与える因果効果は存在しそう。15000人が受動喫煙によって死んでいないにしても、10000人くらいは死んでいるかも。何の根拠もないが、さらに厳しく見積もっても半分としても5000人死んでいるのであり、受動喫煙による死亡が2,3人だったり50人だったりすることもなさそう(断固たる証拠はない)。

4.要するに「確固たるエビデンス」なるものは一生出てこないし、エビデンスが不足しているという人はぜひともどうすれば「確固たるエビデンス」が出せるのか教えていただきたい。不完全だが既存の情報を使ってある程度のバイアスを考慮すると、受動喫煙と健康は関連がないというのは逆に根拠のない強い主張であるし、15000人でないにしても受動喫煙によって病気や死に至る人が少なからずいるということである。*1

以下の議論は「受動喫煙が健康を損なうという因果関係は存在し、その程度も数十名が死ぬ程度のものではなく、一万人以上少なくとも数千人というオーダーになりそうだ」という私の主張に同意していただいていることを前提として、進めていきたいと思います。

受動喫煙がまったく効果がないと主張する方は、既存のエビデンス(例えばこのメタアナリシスから得られた肺がんへのリスク比1.22)をすべて説明してしまうような強力なバイアスの可能性を示していただけると助かります。

まったく効果がないにしても、ほとんど無視できるほどminimalではないかと主張(どのレベルで”無視”できるとするかは人によりますが)する方も、同様に真のリスク比がそのくらい小さい(例: リスク比=1.001、この場合「受動喫煙による肺がん死亡」4.6人「全死亡」61人)として、ここから1.22という値が観測されるほどのバイアスの可能性を示していただけると嬉しいです。

なお、これら家庭内・職域での受動喫煙のみを考慮した非喫煙者における死亡数の推計結果です。飲食店での曝露は入っていませんのであくまで参考程度です。また、もしかすると受動喫煙がなくなれば能動喫煙者の間の死亡も多少減るかもしれません。能動喫煙者自身が受動喫煙の大きな被害者でもありますから。

ちなみに受動喫煙の健康影響を死亡だけで測るのは筋が悪い思います。実際には、子供の喘息やCOPDなど、死に至るほど深刻でないにしても本人の生活の質を著しく損なうような帰結もあります。禁煙を進めるべきかを「健康」という軸から考えていく際にはこれら全てを考慮して「健康影響」とした方が良いと思います。

以上を踏まえて、「受動喫煙と健康の間に因果関係はあると思うし、その影響も”無視できる”ほど小さいわけではない」と考えている方は上記の2パターンに該当しないので私に同意いただいているものだと勝手に思います。ありがたや。

受動喫煙の健康影響があったとして、政策は正当化されるか? 

受動喫煙対策をどう考えるか

私は以上のような”曖昧な”エビデンスを、”科学的根拠”として使って公衆衛生政策を考えることに何ら問題がないと思います。なにも確実に15000人が死んでいるとか、肺がんリスク比1.22が真実であるとは言っていません。少なくない数の人が受動喫煙防止によって救われる可能性がある、ということを言っているだけです。

とはいえ、仮に年間10000人が受動喫煙で死んでいるとして、政策的介入が必要かは意見がわかれるところ。こういう時は受動喫煙防止によって得られる(であろう)ものと失われる(であろう)ものを考えてみましょう。

受動喫煙によって得られそうなもの

  • 国民の健康(死亡・疾病の予防)
  • 非喫煙者が食事する場所を選ぶ自由(喫煙者がいるせいで特定のお店に行けないなんてこと、ありそうです)
  • 非喫煙者が受動喫煙を避け、快適な食事をすることで得られる効用
  • レストラン・居酒屋での”臭い”の軽減

受動喫煙によって失われそうなもの

  • タバコ吸う”自由”
  • 喫煙者が喫煙場所を制限されることによって失われる効用
  • タバコ税収
  • 飲食店の経営(→影響がなさそうということが研究から示唆されています)

私にはこの程度しか思いつきませんが、ほかにもあるかもしれません。政策介入を行うべきかどうかは、本来これらのバランスを考慮して決めるべきだと思います。経済学では”自由”だとか”効用”なんてのも定量化するらしいので、すでに学術的に検討されている内容なのかもしれませんが、私にはどうやってやるのか、それがどの程度信頼できる比較なのか検討がつきません。

さて、これらを犠牲にしてまで、政策介入によって受動喫煙対策をする必要があるのでしょうか?それほど国民の健康をよくすることが重要なのでしょうか。

正直、科学だけでこの問に答えを出すことはできないと思います。ここからは”主観”の登場です。

なんら科学的なステートメントではないということをご理解ください。

健康政策を支持する”極端”な価値観

私は、受動喫煙によって損なわれる健康という一点のみでも、受動喫煙防止は正当化されてほしいと”願います”。健康な人にはイメージがわかないかもしれませんが、不健康な状態であることは苦しいし、大切な家族や友人を病気で亡くすのは想像以上につらいことです。そのような苦しみ・悲しみを社会全体で軽減していこうとする取り組みを支持したいと私は思ってしまいます。そういう意味で私は偏っています

受動喫煙防止で守ることができる健康のほうが喫煙者が外食中に喫煙する自由よりも重要だと”主観で”考えているのですから。

また、受動喫煙の被害者が誰であるかも私の主観的な考えからすると重要な問題です。飲食店で受動喫煙の影響を受けるのは、喫煙者の親に連れられて外食にいく子どもや外食産業でアルバイトをしている(主に)若者となるわけです。喫煙率が年々低下していることを考慮すると、会社の飲み会などでの受動喫煙をうける非喫煙者の割合は若手社員で高くなるかもしれません。子どもや若者の健康が損なわれるというのは特に「けしからん」事態であり、ぜひ社会全体で改善すべき事態だと主観的に思うのです。

おじさんが居酒屋で酒飲みながらタバコを吸う楽しみを失った苦しみと、子どもが喘息で思う存分運動を楽しめなくなる苦しみだと後者のほうが悪いと私の偏った主観から考えます。おやじが能動喫煙で死ぬ悲しみと、生まれて間もない子どもが乳児突然死症候群で死んでしまうことの損失・家族の苦しみと比べれば後者を防ぐことのほうが重要のように思います。すべて個人的な感想です。

医療関係者の禁煙政策に対するリアクションを見て、おおげさ、極端すぎると感じる人も少なからずいるかもしれません。私も非医療従事者ですので、時々彼らの勢いに圧倒されることもあります。医療にかかわる人は日常的に死や病に触れ、患者自身やその家族の苦しみや悲しみをよく理解しいるからこそ、ひょっとすると私よりも「偏った」考えを持っているのかもしれません。

人はいつか死にますし、肺がんで死ななくても別の死因でいずれ死にます。でもだからといって受動喫煙防止をするべきではないというのは筋が通りません。少なくとも受動喫煙という自分自身のコントロール下にない要因によって死ぬことはなくなります。自動車事故を防いでも、全ての人はいずれほかの理由で死ぬことになりますが、それでも自動車事故を予防する取り組みは行ったほうがいいのと同じロジックです。

科学的根拠に基づく政策決定はバリューとサイエンスのバランス 

結局、「受動喫煙を防止することで少なくない数の死と病を減らすことができそう」という科学的根拠から、「政策介入に踏み切って受動喫煙防止を進める」というアクションを決める段階で最終的には大なり小なり価値判断が入るのだと思います

ここまでくるともはやサイエンスの領域を出ます。むしろ、どういう社会をつくっていくべきかという国民・意思決定者の価値感に基づいて、既存の”不完全”なエビデンスを解釈し、合意を形成していく作業なのかなと私は考えます。

これが私のなかの「科学的根拠に基づく政策」の定義です。因果推論が適切に(なにをもって適切とするかはさておき)行われていない研究は”質が高い”エビデンスではないから使用を避けるべきであるという方や、科学的に”確固たる”根拠がないのに政策を決めるのはエビデンスベースとは呼べないという信念を持っている方には残念ですが理解してもらえないと思います。そもそもそういう”確固たる”根拠ってどうやったら出せるのか教えてほしいです。こんなものサイエンスとは呼べないと言われるのであれば、あなたの定義するサイエンスではそうなのかもしれませんと答えます。

少なくとも公衆衛生の世界ではこれがエビデンスに対する考え方の基本で、だからこそWHOや諸外国は”不完全”で”信用ならん”(けれどもある程度意味のありそうな)研究の集合体をもとに合意形成を行い、タバコ対策などを進めてきたのだと思います。

Twitter上に以下のようなコメントがありました。私もまったく同意です。

では、社会として何を目指すか?

受動喫煙対策をするかしないかは、最終的にどういう社会を目指すのかというについて、価値観が違うもの同士の合意形成で決まります。

私が健康を守ることにやたら重きを置いている理由は二つあります。

  1. 健康自体がウェルビーイングを決める重要な要素の一つである
  2. 健康はその人が”豊かな”人生を生きるために必要な資源の一つである

1に関しては上記で述べたようなことです。自ら病気になって死にたいと思う人は少ないし、家族・友人を失ってハッピーな人もほとんどいないと思います。

2はもっと重要だと個人的に考えます。日々活力をもって生活するために健康であることが重要な条件といえるのではないでしょうか。もちろん、何らかの病気を抱えていても前向きに活力ある生活を送る人も少なくないとは思いますが、健康であるにこしたことはありません。健康でなければ好きなことにも全力でチャレンジできないかもしれません。マラソン選手になりたい子どもが受動喫煙のせいで喘息になって、あきらめなければいけないなんてことになるのは悲しいと思います。

ほら、先日のハーバード大学の卒業式でザッカーバーグ氏も言っているんです。

「すべての人が平等に『目的』をもてる世界をつくろう」って言っているんです。

受動喫煙の被害は平等に起きるわけではありません。自己に決定権がない子ども・若者により大きな負担がかかるのです。子どもが親と外食に行くときに自分だけ行かないなんて”選択”はできないし、若者が上司に向かって「すいません、タバコやめてください」なんて言えないのです。子どもの健康に関心がないような親の場合、その子どもは特に受動喫煙の影響を大きく受けそうです。健康になる機会の平等が侵されていると思います。

科学に関わる人間がなにを香ばしいこと言っているんだと言われても、これは価値観の話なので否定される筋合いありません。なお、私やザッカーバーグ氏が言っていることが素晴らしく、正しいから同意しろなんてことも微塵も言っていません。ただ、「受動喫煙の防止で少なくない健康被害が減らせそう」という前提のもと、このような考え方に共感して、タバコを吸うおじさんの自由よりも子どもに平等な機会を与える社会を作りたいと考える方に、「受動喫煙への政策的介入」というアクションを支持してもらえると嬉しいです。この信念の部分で理解ができないというのなら仕方がないというか、公衆衛生に関わる人間がそういう人たちを説得しようとするのはお互い時間の無駄だと思います。ただ、国民のなかで上記のような信念に共感して受動喫煙防止をサポートしてくれる方が多いのであれば政策介入は正当化されるのだと思います。子どもの健康など、知るか、自由にさせろ!という人がいるならば、それはそういう考え方で仕方ないです。でも個人的には社会全体としてそういう風になってほしくないなと思います。

仮に規制によって失われた喫煙者の自由と効用を定量化したとして、ではこれらに配慮して社会全体として効用を最大化することが正義なのか、子供の健康をまもることで調整する機会の平等に配慮することが正義なのか、これもまた価値観で決まることだと思います。

解決策として飲食店内全面禁煙が妥当なのか?

さて残りはシンプルに終わらせたいと思います。書き疲れたというのと、私自身うまく答えが見つかっていないのでこれを読んだ皆さんの間でディスカッションが盛り上がることを祈ります。これまでの流れは以下のようなイメージ

1.「受動喫煙を防止すると少なくない数の健康被害が減らせそう」という少し疑問は残るが既存のエビデンスを見る限りまあおそらく妥当だろうと考えられる前提のもと

2.「受動喫煙による健康被害は規制によって失われる個人の自由よりも重要だろう」「国民の健康、特に子どもと若者の健康を守っていく社会になるといいなあ」という価値観部分で共感してもらえた場合には、

3.「政策によって受動喫煙対策を進める」ことには同意してもらえる(はずと期待)

こんな感じです。でもだからといって、室内全面禁煙はやりすぎではないか!受動喫煙を防ぐにしてもほかの方法があるのではないか?という意見もあるかと思います。要するに規制によって失われるものを考慮したときに「最善策」が飲食店の一律禁煙なのか、という問題です。

他にどんな方法がありそうかというと、

1.店舗内分煙

2.建物レベルの分煙(+子どもの入店禁止)

3.以下のように禁煙デフォルト+許可制で税徴収なんてパターンもありそうです

どんな策が良いかを考えるうえで、二つ切り口があると思います。

一つは「本当にその方法、問題を解決しますか?」というもの

例えば店舗内分煙なんかは健康被害を減らすという点では意味がないことが知られています。建物レベルの分煙+子どもの入店禁止なら、禁煙の建物内なら受動喫煙のリスクはありませんし、たしかに子どもが親に(選択権なく)連れられて受動喫煙の被害を受けることもありません。しかし上記のツイートで指摘されているように、(大人でも)受動喫煙を避けたい人が自由に店舗を”選択”できるかというと怪しいです。喫煙者の上司に飲みに行くぞと言われれば、部下は喫煙可能な店舗に行くしかありません。3の方法でも、同様の可能性がありますが2よりはマシそうです。

二つめは「そもそも実現可能か」「政策決定のタイムラインにのっているか」というもの

例えば規制によって犠牲になるものと受動喫煙による健康被害を経済学的な分析でとことん追求すると、ベストのバランスがとれる方法は一律禁煙ではないかもしれません。しかし、とってもシンプルな仕組みでバランスがとれるとも考えにくいです。3の原則禁煙+許可税でも、許可税をいくらにするのか、一律同額にするのか何らかの形で傾斜をつけるのか、いろいろやりようがあると思います。研究者が全力で”最適解”を求めにいくことも重要ですが、あまり制度が複雑になってしまうとそもそも政策として採用されるか、実施可能かってところで疑問がわいてしまいます。あらゆる政策が実施可能なわけではないと思います。

もっというと最適解を求めるには時間がかかります。徹底的に厳密な分析と議論を重ねたうえで最良の答えを出すべきという態度が間違っているとは言いません。学者として誠実な態度だと尊敬できます。しかし、以下の津川氏のブログにも書かれているように「社会の問題はエビデンスをまってくれない」のです。もたもた最善策を考えている間に対立する側(JT)があの手この手で、受動喫煙対策そのものをなかったことにしようとしてしまいます

まじめで誠実な研究者の方は納得いかないのかもしれませんが、たとえ「ベスト」でなかったとしても「ベター」な方法があって、それが現実的な状況を鑑みて実現可能であるならば、えいやと大胆に舵切りをするのが政治だと思います。

価値とサイエンスが交わる領域で科学者はどうふるまう?

最後に少しだけこの話題を。

科学者という立場でいい加減なことをいうべきではないと強い信念を持った方が少なからずいます。徹底的な分析・議論を重ね最善策を提供するのが学者の務めであり、情報発信する際にはエビデンスの不確実性について明記すべきであるという考えです。

まったくもって正しく、誠実で、まじめな態度だと思います。しかし、対マスコミュニケーションでは時に(科学的には少々乱暴に見えるかもしれない)情報発信も正当化されていいのではと個人的には思います。

例えば、「受動喫煙で毎年15000人が亡くなっている」というのは確かに不正確なフレーズです。科学に真摯であるならば、

「〇〇らが行った算出(ref)によれば、---という前提のもとに、メタアナリシスから得られたリスク比に基づいて計算すると”受動喫煙がなくなれば15000人の死亡がなくなる”といえると考えられます。ただし、このメタアナリシスはコホート研究の結果を併合しており、ここの研究にバイアスがあることからメタアナリシスから得られたリスク比もバイアスがあり、因果関係と考えることができません。その他使用している数字も調査に基づくものなので正確でなく、15000という数字は実際の受動喫煙の影響を課題表かしている可能性があります。ただし、ーーーという前提で感度分析をした結果、10000人くらい少なくとも数千人単位の死が予防できるのではないかと考えられます。」

くらい言った方がいいのでしょう。でも、よく考えてください。逆にこんなこといって科学者はやっぱり信用できる!って国民が思いますか?なんかよくわからん言葉を並べてごまかそうとする怪しい連中だって思われそうじゃないですか?

ていうかTwitterの文字数制限は確実に超えてますし。

コミュニケーションの問題ですが、時には伝える情報を絞ることも重要だと思います。

 

以上、長くなりましたが受動喫煙に関するブログはいったんこれで終わりにしたいと思います。一連のブログを書いた目的はあくまで「疫学研究とそれに基づく禁煙政策への批判」をした研究者を説き伏せることでも誤りを指摘することでもなく、「偉い先生たちにコテンパンに言われている受働喫煙対策、やっぱり信用ならん」という一般の方からの誤解をときたい、というものでした。

エビデンスを使った政策決定は、研究の”質”に対して柔軟であり、サイエンスとバリューの領域を明確に、最後はプラクティカルな部分も考慮しながら、"available best"を求めていくことなのかなと思いました。間違っている部分、考えがあまい部分等あると思いますが、これが建設的な議論の助けになればよいと思います。

 

 

*1:厳密には、統計から言える”因果関係”は「受動喫煙を無くせば、死亡が〇〇人減る」というものである。